新撰組の結成当時、私は隊長のアサ哲から小島氏や私に対し、なんらかの指示が出るものと思っていた。もっと正確に言えば、勝手にそのように思っていた。隊長からは、「指示を待て」というごくわかりやすい言葉すらも出ていなかったのである。
呆然と立ちつくす私。そんな私に隊長はこんな意見を寄せてきた。
『あのね、フリーランサーって奴はね、先の保証もないし競争も激しい。自力でいつも何かを攻めていかないと落伍してしまう。誠実もいいけれど、もう少しアクの強い部分を作っていってもいいんじゃないかね』
表面的には私に対する忠告のようでもあるが、私はなぜか作家・阿佐田哲也氏からの“注文”と受け取った。さらに
『もちろん本質を変えろなんていわないよ。演出する必要があるんじゃないかということだ。』
注文がつくということは、発信者の方になんらかの意図もしくは構想があったから、ということになりはしないだろうか。
アサ哲と小島氏の出会いは昭和45年に始まった「週刊大衆」の名人戦。この時、アサ哲の想いの中にはまだ固まってはいないもの、たとえば浅草、あきれた・ぼういず、マージャン版コントなどなどが渦を巻いていたに違いない。
むろんその発端は「麻雀放浪記」のシリーズ化と出版サイドからの要望。小島氏のほかにもうひとり、自由に身動きのできる打ち手がいれば、面白い展開もあるのではないか、アサ哲は考え、ほとんど見切り発車のような格好で新撰組構想を実際にスタートさせたのではなかろうか。
その時点で、アサ哲には小島氏や私のキャラ、持ち味などはまだつまめてはいなかったはず。だから青写真が描けなかったのかもしれないが、今振り返ってみると、アサ哲にはもともと青写真への関心はなかったのではないだろうか、と思えてならない。
ではアサ哲、実際にはどのように考えていたか。
制約がかかるような注文は何もつけず、小島・古川それぞれ本人たちの意思で動いてもらうのがベスト。
要するに“放し飼い”状態にしておくということだが、そのほうが展開がどうなるかわからないだけに、期待以上のネタが出てくるかもしれない。これがアサ哲のひそかな狙いだったと思われるが、収穫のあるなしを含め、先行きのことはアサ哲自身にもわかっていなかったに違いない。
月刊「近代麻雀」に寄せられたアサ哲のエッセイにこんな箇所がある。
『小島、古川両君が私の新しい友人になるのにそう時間はかからなかった。彼等二人を含めて遊びのグループを作り麻雀新撰組と名乗ったが、実に奇妙なことに、この連中はそろって好人物なのである。』
さらに『他人の背後から闇討ちを喰わせるような人物が居ない。恥も外聞もなく喰いついてやろうという人物も居ない。勝負事に関する人間には不可欠のものであるはずなのに。』
どうやらアサ哲が私たち二人に抱いていた期待像は後半の一文のようなものだったのかもしれない。後に、新撰組解散のあと、アサ哲が「夕刊ゲンダイ」に寄せた一文には私たち二人を<剣呑な存在>にしたかったとも書かれていて、期待像の脈絡にブレはなかったようだ。
アサ哲本人の身になって考えてみることだ。そうすれば、なぜ青写真がなかったのか、なぜ新撰組御用達の競技規定を作らなかったのか、なにゆえ三人だけで十分と考えたのか、まだまだほかにもあるが、アサ哲の想いが一点に絞られてくるのではなかろうか。
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