「日刊近代麻雀」は関連年表などでは昭和47年の創刊となっているが、もう少し細かくいうと、この年の12月に創刊号でもある新年号が刊行された。
麻雀新撰組の旗揚げは昭和45年のことなので、われわれの方が2年ほど前に動き出していたことになる。
しかし、動き出したとはいえ、新撰組として特筆すべきものはほとんどなかったに等しい。その当時でさえ、「これはその場しのぎのアルバイトみたいなものだな」と思っていたが、その多くはマージャン大会や誌上対局などの記録子の手配。
当初は担当の編集者などがこれをやっていたが、彼らにとってこれはまったく未知の分野の仕事であって、わずか4人の記録子を揃えることですら、かなりの患(わずら)わしさがあったようだ。
雑誌媒体でいえば「週刊大衆」(双葉社)、「週刊ポスト」(小学館)、「プロ・マージャン」誌の母体となった新評社の別冊シリーズ。さらに、週刊「プレイ・ボーイ」(集英社)などもあった。
昭和30年代のその当時、記録子のバイト料は5,000円がほぼ相場になっていたが、拘束時間は半チャン2回の取材で3時間程度。しかも仕出し弁当も出るので、希望者はいくらでもいた。
取材会場もホテルや料亭、旅館といったところがほとんどで、一般のジャン荘が会場になることはまずなかった。印象に残るゲストも数々いたが、その中での筆頭は入り口の三和土(たたき)に脱ぎ置かれていた巨大な靴。まるでボートのように見えたが、持ち主は誰かと訊くまでもなく、対局室にはいったらすぐにわかった。ゲストはプロレス選手の一行で、その中にロボットのような巨漢・ジャイアント・馬場氏がいたのである。
旗揚げの当初、私は檜舞台が次々に設けられ、そこで闘うことになるのかと思っていたが、そんな予想はどこへやら、依頼がくるのは裏方の仕事ばかりで、新撰組は開店休業状態といってもいいほど静かだった。
新撰組が企画し、運営したものとしては大会や教室などもあったが、これらは多分にファンに対するサービス的なもので、そう長くは続かなかった。
アサ哲は新撰組結成からのわずか3年後に隊長降板を宣言したわけだが、それまで不定期ながらも続いたのが月例会と称するマージャン会。
会場のほうもマチマチで、都内ではどこかの後家さんがひっそりとやってるマンション・マージャンの一室だったりした。
卓数も2卓ほどと少なく、ゲストはアサ哲の知人が多く画家の秋野卓美氏、随筆家の江國滋氏なども来ていた。
月例会には合宿といわれるものもあって、これはある出版社が伊豆の山の上に持っていた保養所を使わせてもらった。記憶に残っているゲストとしては、作家の清水一行氏や劇画原作者の小池一雄氏などがいた。
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