競技を標榜(ひょうぼう)するのであれば、できるかぎり偶然性を排除したい、そう考える人は多いはずです。
にもかかわらず、昭和の時代からの継承を良しとして偶然性の排除への取り組みが疎かになっているのは如何なものかと思う今日このごろ。
せっかく麻雀ウォーカーさんに提言の場を与えていただいたので、コラムを通して競技界へ波紋を投げてかけていこうと決めました。
今回のテーマは<裏ドラ>
競技ルールにも、一発や<裏ドラ>はもちろんのこと、Mリーグなどに見られる赤アリも含め、愛好者の遊技に寄り添うものが増えてきたようです。
一発役の規定についても、競技を考えるときに今のままでいいとは思えませんが、それは別の機会に譲るとして、<裏ドラ>規定についての改変を提言させていただきます。
単刀直入に言いますが、何故<裏ドラ>は開示されていないのか? 大いなる疑問を感じています。
遊技であれば、それもいいでしょう。
和了するまで<裏ドラ>が見えないドキドキ感は、麻雀の遊技性を促進しています。
ノミ手リーチをかけて、一発でツモリ<裏ドラ>が暗刻の牌。「6000オール!!」の快感はまさに『麻』そのものです。
いつだってその可能性は秘めているわけですから、リーチへの誘いにフラッとしてしまう愛好者に共感を覚えます。
ところがその快感を競技に持ち込むのはいかがなものかと私は考えます。
リーチをかけた時点で槓ドラが増えない限り、和了点が確定していることが競技には求められるのではないでしょうか。
ドラ 裏ドラ
オーラスの南家は、2番手にいますが、トップ逆転の条件は、トップ目から5200点を直撃するか、マンガンツモとなっていました。
こんなとき、<裏ドラ>期待でリーチをかけるか、かを外して345の三色を狙っていくかは、置かれている状況によって選択が変わるはずです。
トップ条件をクリアできれば優勝するという状況では、巡目にもよりますが、イチかバチかのリーチに踏み込む競技者より、マンガン確定手順をとる競技者の方が圧倒的に多いでしょう。
競技ルールは、イチかバチかの選択が迫られないよう、できるかぎり偶然性を排除したものにしておくべきです。
ですから、<裏ドラ>アリルールを採用するのであれば、表ドラを開示する際に<裏ドラ>も開示しておけば競技性を損なわないと考えるのはおかしいでしょうか?
<裏ドラ>さえ開示されていれば
ドラ 裏ドラたとえばこんな<裏ドラ>開示になっていれば、三色手筋をとる必要もなく、5200点直撃あるいはマンガンツモでトップ逆転、そして優勝できる切り即リーチが打てるということになるのです。
裏ドラ開示で競技の楽しみは損なわれるのか
え?? それって麻雀の醍醐味が半減して、スリリングな競技ではなくなるのでは? と疑問を呈する方もいらっしゃるかもしれません。
でもよく考えてみてください。
<裏ドラ>を開示するゲームにおいて、競技が従来通りのゲームより劣化すると考えますか?
もしそう考えるのであれば、劣化する理由を挙げてみてください。
おそらくその理由は、遊技性が損なわれる類いのもので、決して競技性に「?」が付くものではないと思います。
オーラスの逆転劇以外にも競技としての面白さや奥行きが広がる局面が<裏ドラ>開示によって増えるはずです。
東3局東家7巡目 原点
ツモ ドラ 裏ドラ
<裏ドラ>が開示されていなければ、切りを選択する競技者は多いかもしれません。
私のようなヘソ曲がりは、七対子を睨みながらをツモ切りして、あわよくばこんな理想形まで視野に入れています。
ドラ 裏ドラ
まあドラ表示牌のが入手できにくいと判断する競技者は、こんな夢物語を前提にした選択はしないでしょう。
ところが<裏ドラ>がと開示されていると選択の幅はぐっと広がります。
なんせ手牌は七対子ドラ4(ハネ満)のイーシャンテンなのですから、ここで<裏ドラ>のを手放そうとする競技者はけっこう減るはずです。
ドラ 裏ドラ
ドラ表示牌のを敢然と切っていく選択も大いにありますから、<裏ドラ>開示によって選択の幅が広がり、しかも曖昧な点数計算にはなりませんから競技性が保たれます。
仲間内でワイワイ楽しんだり、健康麻雀サロンなどで見知らぬ人とも気軽に楽しむ遊技麻雀であれば、昭和からの慣習を守って遊ぶことに異論を挟む余地はありません。
ただ、競技を昇華させようとするプロ組織を含め、競技志向の高い集団にとって、<裏ドラ>不開示の、目に見えない要素を取り残したままのルールでよいものか、幸せな結婚生活をアガリ放棄して競技に人生をかけてきた男の意地として、今後も発信しつづけたい思っています。