「競技一筋45年」 第1回 競技にサイコロは?

土田浩翔の「競技一筋45年」

麻雀競技との出会い

初めて<麻雀競技>に参加したのは1978年の春のことでした。

 中学・高校の6年間、麻雀専門誌に夢中になり、毎号掲載されている<麻雀競技>の結果を貪り読み、「この人いつも上位にいるなあ」とか「あれ?あの人の名前、しばらく見てないなあ」とか思いながら、「参加できる年齢になったら必ず出るぞ!」と心に誓ってました。

 当時は大型麻雀店も数多くあって、そのひとつ『後楽園クラブ』で月に1度開かれていた《サンケイスポーツ杯麻雀大会》に高校を卒業した私は参加しました。

 参加者は200人を超えていて、後楽園球場の中にあったそのお店は押すな押すなの大盛況、初めてその光景を目にした私は場内の雰囲気に呑み込まれてしまいました。

 まだ全自動卓が誕生していなかったので、山を積むときに心臓の鼓動が聴こえてくるほど、私は極度の緊張感に包まれてました。

 その大会に参加するまでは、家族や友人たちと細やかな賭けを楽しんだり、大橋巨泉さんが金曜日の23時になると、麻雀実戦教室を地上波で開いてくれるのを観たりして、父たちと一丁前の麻雀談義に花を咲かせてました。

 そんな背景もあって、初めての<麻雀競技>に参加するに当たっても「自分のレベルはどれくらいなんだろう?」くらいの心持でいました。

 

 『百聞は一見にしかず』とはこのことで、200人超えの《サンケイスポーツ杯麻雀大会》に参加した私は、<麻雀競技>の格式の高さに驚くとともに、一気にそのすべてに魅せられてしまったのです。

 普段の麻雀では経験できないヒリヒリ感もさることながら、場所決め・親決めの方法や、対局中のマナーや作法など、<麻雀競技>ならではの決まり事に啓発を受けました。

 「麻雀はかくあるべき」みたいな世界に惹き込まれるのに時間はかかりませんでした。

 以来、45年間、私は<麻雀競技>に自分のすべてを投入してきました。

 「我が人生悔いなし」と断言してもいいくらいの<麻雀競技>人生でしたが、それでも志半ばという側面もありまして、まだまだ熟成しきれてない<麻雀競技>への提言も兼ねたコラムへのお付き合い、どうかよろしくお願い申し上げます。

賽子(サァイツ)=サイコロは必要か?

 今月のテーマは<賽子>です。

 <サイコロ>と書いたほうが親近感が増すかもしれませんね。

 ネット麻雀やMリーグ、そして麻雀店などでゲームをする場合に<サイコロ>は使わなくなった現代の<麻雀競技>において、いまだプロの公式戦や愛好者向けの大会、そして麻雀教室や健康麻雀で<サイコロ>を使っていることに大いなる疑問を抱いてしまいます。

 大いなる疑問、それは<サイコロ>が古来博打に使われてきた小道具だからです。

 <サイコロ>の出目は、1度振りの場合2~12までの11通りあります。

 親になった人が<サイコロ>に運命を託し、11通りの抽選をして配牌を選ぶ、これは紛れもなく博打なのではないでしょうか。

 遊技であれば<サイコロ>遊びもまた楽しからずやなのですが、<麻雀競技>の世界で配牌を取るにあたり<サイコロ>を使うことへの違和感を競技者たちは感じないものなのでしょうか?

 「賭けない」ことが<麻雀競技>のバックボーンになっているのであれば、配牌を<サイコロ>を使って選択させる一種の賭け行為は避けたほうがいいと思うのです。

 

 では<サイコロ>を使わずに配牌を取る方法は?

 これは一部の自動配牌機種にもありますが、王牌14枚部分を城壁牌の右側で切り離す、それも親の目の前の山で行えば、<麻雀競技>は実にスムーズに進行できるのです。

 俗に「親の自7で取り出して」などと言われるもので、親を迎えた人が、目の前の山の右から数えて7つで区切り(その7つが自動的に王牌となります)、配牌の取り出しを開始し、と同時にドラを開けます。

 この一連の作業は目の前で行うため、健康麻雀を楽しまれる方も、牌を触って間もない初心者の方にも、覚えやすく間違いが起きにくい「親の自7取り出し」になるはずなのです。

 そしてこの配牌取り出しの最大の長所は、<麻雀競技>と呼ぶに相応しい公平さが担保されているという点です。

 いつも変わらずに一定の規則、これが<麻雀競技>が競技たる基本ですから、<サイコロ>の出目によって配牌取り出しが不安定化するのは公平性に欠けるやり方なのです。

 

 卓内から<サイコロ>を無くそう!

 <麻雀競技>を熟成させるためには、何としてもこの提唱は具現化していかなければならないと思っています。

 場所決めしかり、親決めしかり。

 <サイコロ>を使わずに簡易化すればいいだけの話です。

 最近では増えてきましたが、4回戦の<競技大会>などでは、予め回戦毎の座位が決まっていて、東家・南家・西家・北家に1度ずつ座れて、東家に座った人が起家になるという極めて分かりやすい<競技システム>があります。

 このやり方は、主宰者の胸先三寸で、教室でも健康麻雀サロンでも採用できます。

 <麻雀競技>と<サイコロ>が相容れないものであることに、多くの競技主宰者や競技者が気づいてくれないものかと切に願っています。

 

 「サイコロを振るから楽しいの」

 「ツキを変えられるのがサイコロだろ」

 「心の強弱を試す格好の瞬間だ!」

 みたいな声が<サイコロ>賛同派から挙がることは承知しています。

 かくいう私も<サイコロ>で配牌とツモが劇的に変化することに興味津々で、その研究に勤しみたい気持ちもあるほどです。

 でもそれはあくまでも遊技麻雀の世界でのオハナシで、<麻雀競技>を熟成させていく過程では不要になってしまいます。

 ですから、競技と遊技は全く別ものという解釈で、それぞれの世界を考察していくことが、プロ(普及者も含めて)に課せられた使命なのではないかと考えています。

 

 <麻雀競技>と<サイコロ>について、これを読んだ愛好者の皆さんのご意見を伺ってみたいなと思っています。